人より少し繊細な私へ。
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――疲れた。
仕事で、生活で、人間関係で。
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そう感じることが多くなったのは、いつ頃からだろうか。
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小学生の時、クラスの誰かが問題を起こして担任の先生がみんなの前で叱る時間がとても嫌いだった。
小学3年生。
担任は学校で1、2を争うくらい厳しいと言われていた女の先生だったが、
夏休みが終わり暫くするとクラスは学級崩壊と言えるくらい荒れるようになった。
授業中にも関わらず、席を離れ歩き回る男子生徒。
私語の絶えない女子生徒。
何か起こるたびにしょっちゅう授業は中断され説教の時間になり果てた。
授業の進度が遅れたため、私は塾でその学年の勉強を教わった。
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後期の係決めで、担任に無理矢理指名されやることになった学級委員。
木曜日に学級委員会があり、ピアノの習い事があるため出席できないと拒否したが、
クラスの大半は聞いておらず強制的に、私と、気の弱い男の子がやることになった。
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「いい加減にしなさい!」
そう声を荒げる担任。何度この怒鳴り声を聞いたのか。
最早誰の耳にも届いていない。
「学級委員、立ちなさい。」
――またか。
何もしていないのに立たされ、謝らされる。
教室の外では担任に助けを求められやってきた上級生の担任の男の先生が、問題を起こした男子生徒を壁に追いやり、
ドスの効いた声でなぜ問題を起こすのか怖い顔で問い詰めている。
悪いのはそいつらで、私は何もしていない。
なのに、どうして自分が立たされ代わりに怒られているのか。
一緒に学級委員をやっていたはずの男の子は、無視を決め込みそっぽを向く。
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「まじできもいよね~」
「先生のお気に入りだもんね~」
ひそひそと声が聞こえるようになったのは、いつ頃からだったか。
仲良くしていた女の子たちは、話しかけても私がいないように振る舞った。
授業で発言している時、クラス内で手紙が回った。
授業終わりに私の机にポン、と乗った紙きれを開くと、中身は私の悪口で埋まっていた。
容姿や持っている物について、徹底的に否定されていた。
小学生のボキャブラリーなんて乏しいもので、
バカ、キモイ、ブス、クソ、デブ、消えろ、死ね。
当時の私たちの知っている言葉で悪い言葉だとされているものはほとんど網羅されていた。
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帰ろうとすると靴がないこともあった。
公衆電話で母に電話し、迎えに来てもらった。
無くなったお気に入りの靴は次の日の朝、校門の脇に立っている桜の木の根本に捨てられていた。
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クラス全員が私を無視しているわけではなかったし、一緒に帰る子もいた。
でも、私を学校から遠ざけるには十分すぎる理由があの空間にはあった。
どちらかというとリーダー気質だった性格は影を潜め、笑顔を作ることはなく
休み時間は外で遊ぶことをやめ、
幼少期から大好きだった本の世界にさらに没頭するように図書室に籠るようになった。
現実世界の自分を本の主人公に重ねて現実逃避をすることで
自分を守っていたのかもしれない。
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寒くなり始めた時期から学校から帰宅する私は無意識にため息をつきだしたようで
異変を察知した母は、何かあったのかとそれとなく尋ね、それがいわゆる"いじめ"であると知るとすぐに学校に抗議の電話を入れた。
しかし、荒れ放題だったクラスに疲れきった担任と、そんなクラスに関わりたくなかった学年主任は口先ばかり申し訳ございません、と繕って状況は中々良くならなかった。
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ある日、帰り道が同じだった男の子にくるぶしを傘で突かれ
骨にヒビが入った。
何度も整形外科に通い、電気治療をした。
あの病院のシップや薬の臭いは、痛みよりも精神的に参っていた私の記憶に強く残っている。病院は苦手だ。
怪我を負わされるまでも何度も学校に通って、時には迎えに来てくれた母はこの1件で激怒し、校長に抗議をした。
すぐに相手の両親と当の本人が家に謝りに来た。
大事になりすっかり縮こまった男の子は、謝罪の言葉がなかなか口から出てこず、
父親に頭を拳骨で強く殴られ、殺すぞ、とまで罵声を浴び、号泣しながら私に謝罪した。母親はなぜか涙を流していた。カーペットに涙が落ちるのが、嫌だった。
そんな汚い言葉で子供を罵る親をかつて見たことがなかった私は痛む右足よりもその子が本当に殺されてしまうのではないかが怖くて、すぐにいいよ、と言った。
私の両親は、そんなことをして欲しくて家に呼んだわけではない、と
今までで一番怖い顔と声で相手の親を諫めていた。
足よりも心臓の辺りが痛かったことをよく覚えている。
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精神的に限界を迎えていた私を見て
冬休みの2日前に母は言った。
「学校、休んじゃおっか」
ずる休みになっちゃうよ、と顔を曇らせる私に、
母は大丈夫だよ、休もうね、と優しく言った。
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冬休みが明ける直前だったか、いつかは忘れたが
当時単身赴任だった父のところへみんなで行こうか、と母から提案された。
月に2回会えればいい方だった父と住める。
何より、もうあのクラスに行かなくていいんだ。
逃げたい、逃げたい、逃げたい。
もうあんなところに行きたくない。
転校することについて実感は全く湧いていなかったけれど、提案を受け入れるのに時間はかからなかった。
それから春休みまでのことは全く記憶にないが、
転校することをぎりぎりまで言わないように、と母から言われていたような気がする。
春休み直前に、転校を明かしてからはクラスの皆が一気に優しくなった。
終業式の日にはお別れ会を開いてくれ、個人的にプレゼントを用意してくれたため、手提げ袋はパンパンになった。
当時撮った写真には笑顔の私がカメラに向かってピースをしている。
今はもう無いが、子供なんて単純なものだ。
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中学、高校でもそれなりに嫌な目に遭ってきたが
小学生時代の出来事が、今の私の弱い部分を作ってきた。
必要以上に周りの目を気にするのも
知らない誰かがイライラしているのを感じて気分が落ち込むのも
責任のある立場につくのが怖いのも
誰かのミスで叱られることがたまらなく嫌いなのも
広く浅く友達と付き合えないのも
思えばこの経験が私の心に深い傷を作ったからだろう。
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最近、とあるきっかけで"HSP"という症状があることを知った。
HSPとは"Highly Sensitive Person"の略で、
非常に感受性が強く敏感な気質を持った人を指す言葉である。
この気質は先天性のものであるらしい。
(参考:https://www.shinjuku-stress.com/column/psychosomatic/hsp/)
以下、こちらのサイトの文言を引用させていただきます。
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こちらのサイトに記載されているHSPの人の特徴はよく当てはまると感じている。
例えば。
【Depth og Processing】
・お世辞や嘲笑をすぐ見抜く
・調べものを始めると深く掘り下げる
―うわべだけの友達付き合いをしているとだんだん気分が悪くなるので、私の友達には腹を割って話せる人しかいない。
また、気になったことがあると腹オチするまで調べる癖がある。
【Overstimulation】
・人混みや大きな音が苦手
・人の些細な言動に傷つき、いつまでも忘れられない
・友達との時間は楽しいものの、気疲れしやすく帰宅するとどっと疲れている
―上京してから、ケータイを手に持ち音楽を聴きながらでないと歩きづらくなった。
また、小さなことが気になりモヤモヤを抱えるし、社会人になり人付き合いをある程度自分で調整できるようになってからは一日中友達といなくなった。
【Empathy and Emotional Responsiveness】
・人が怒られていると自分のことのように感じ、傷つく
・人のちょっとした仕草、目線、声音などに敏感で、機嫌や思っていることがわかる
―職場でも、どのコミュニティでもそうで、何か感じとるたびに進んで中立の立場をとって空気を整えようと必死だった。
【Sensivity to Subtleties】
・強い光や眩しさなどが苦手
・肌着のタグが気になり我慢できない
・冷蔵庫の機械音や時計の音が気になる
・強い味付けが苦手
―朝や日中が苦手だし、肌着のタグだけでなくハイネックも気になる。
薄い味付けでほっとする。
冷蔵庫のヴーーーーーという音、時計の音も苦手だったので勉強中は何かを聞いていることが多い。
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上記のように、4項目すべてに当てはまったので私はHSPの症状があることになる。
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人より少し、繊細な私へ。
あなたは小さい時から、何かと我慢を強いられる状況、
またはマイノリティになることがあり、
器用貧乏であったがために妬まれ悪口を言われることがありました。
それら全てを、誰かに助けられながら乗り越えてきました。
しかし、傷は癒えずに残っているし、この先も完全に消えることはないでしょう。
人より少し、繊細なだけ。
でも、生きづらさも感じます。
どうか、自分の心を守って。
小さい時、私は私の心を守れなかった。
抱えた傷は思ったより大きいです。
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でも、今私の周りにいてくれる人は
私がふるいにかけまくって残った人たちです。
SNSで多くの友達と付き合いがある人を見て落ち込むことが多々ありますが、
私の友達、親、そして恋人は私を守るために尽力してくれます。
信頼して、委ねてもいい存在です。
その代わり、大切にすること。
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人より少し繊細な私へ。
大丈夫、
大丈夫。
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♥Hinata♥